特別展 ポンペイ |
SPECIAL EXHIBITION POMPEII |
The eruption of Vesuvius and the burial of Pompeii |
― そこにいた。 ― |
紀元後 79 年、イタリアのナポリ近郊のヴェスヴィオ山で大規模な噴火が発生、ローマ帝国の都市であったポンペイが火山噴出物に飲み込まれました。
火山灰で埋没した古代の居住地には、当時の人々の生活空間と家財がそのまま封印されています。 この「タイムカプセル」の中身を解き明かすべく、ポンペイでは
18 世紀から現在に至るまで発掘が続いています。 |
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会期:2022 4/21 ~ 7/3 京都巡回展は終了しました。 会場: 京都市京セラ美術館(京都・円勝寺町) |
'2022 1_13 報道内覧会 特別展「ポンペイ」の会場内の風景です。 |
・No.18 《ビキニのウェヌス》 一軀 前 1~後 1 世紀 ポンペイ、「ビキニのウェヌスの家」(Ⅰ11,6)、アトリウム(2)出土 大理石(彩色・金彩の痕跡あり)、目:練ガラス |
・No.18 《ビキニのウェヌス》 沐浴する直前でサンダルをん脱ぐウェヌスの姿、装身具を表す金彩や女神の両目は練ガラスで作られている。 |
特別展 「ポンペイ ― ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没 ―」 |
― ナポリ国立考古学博物館の至宝 150 点が一挙集結!―
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~ポンペイの代表的 3 軒の邸宅「ファウヌスの家」「竪琴奏者の家」「悲劇詩人の家」から発掘された品々~ |
「みどころ」―「ポンペイ―ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」カタログ、 PRESS RELEASE などからの抜粋文章です― |
Ⅰ. ナポリ国立考古学博物館の至宝 150 点が一挙集結! |
Ⅱ. 博物館で遺跡巡り、2000 年前にタイムスリップ! |
Ⅲ. 圧倒的な没入感、めくるめく高精細映像体験! |
「展覧会の構成」 序章、1~5 章 |
'2022 1_17 報道内覧会 「ポンペイ―ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」 の各章の概要と会場内展示風景です。 |
序章 「ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」 |
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79 年のある日の朝、ヴェスヴィオ山の噴火が始まった。 火口から約 10 Km離れたポンペイには、昼過ぎから 11 時間にわたって大量の灰や軽石が降り注いだ。 街から脱出するものもいれば、家の中に逃げ込む者もいた。 だが次第に、噴出物の重みで家々の屋根は落ち、残った者は閉じ込められていく。 翌朝には高温の火砕サージと火砕流がポンペイにまで到達し、まちの全ては死に絶えた。 | |
・No.4 《バックス(ディオニュソス)とヴェスヴィオ山》 1面 62~79 年 ポンペイ、「百年祭の家」(IX8,3.7)、 アトリウム(49)出土、東壁 フレスコ |
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・No.4 《バックス(ディオニュソス)とヴェスヴィオ山》 このフレスコ画は、装飾中央には単一峰のヴェスヴィオ山が見え、その頂上までブドウ棚の列が続いている。 左手にはワインの神バックスがおり、ブドウの実を身にまとう姿は、ブドウの房のようだ。79 年の噴火以前のヴェスヴィオ火山は単一峰で、頂上までブドウ畑が広がっていた。/ ・No.1 《女性犠牲者の石膏像》 79 年の噴火物の堆積層の中に空洞を見つけることがある。 それは、家具や窓枠などと木製の物体、さらには人間の遺体などの有機物が分解されることによって起こる。 こうした空洞に、石膏を水で溶いたものをいっぱいになるまで注ぎ、石膏が完全に乾くまで置いてから掘り出すと、空洞の原因になったものが明らかになる。 この石膏像は若い女性のもので、1875 年に石膏取りされた。/ ・No.2 《凝灰岩にはまり込んだ片手鍋》 平らな柄のついたブロンズ製の片手鍋が、79 年の噴火の影響で凝灰岩に結合した状態で発見された。 |
'2022 1_17 報道内覧会 「ポンペイ―ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」 の各章の概要と会場内展示風景です。 |
2. 「ポンペイの社会と人々の活躍」 |
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ポンペイの街で暮らした裕福な市民たち。 宴席を飾った豪華な品々、教養人であることを示そうとした家財や装飾から、裕福な市民の嗜好が浮かび上がります。 また、街の有力者の多様な出自にも注目します。 ポンペイの資産家には、ビジネスの才覚でのし上がった解放奴隷や低い出自の女性もいたのです。 こうした人物に因んだ発掘品からは、一発逆転のチャンスがあった古代ローマ社会の動的な側面がうかがえます。 一方で、都市の人口のかなり (一説によれば 4 分の 1 ほど) は奴隷だった。 | |
・No.49 《エウマキア像》 1 軀 1 世紀初頭 ポンペイ、「エウマキアの建物」(Ⅶ 9,1)、クリユプタ出土 大理石/ No.64 《ヘルマ柱型肖像(通称「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥスのヘルマ柱」)》 1 基 前 1~後 1 世紀 ポンペイ、「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥスの家」(V 1,23-26)、アトリウム(b)出土、東壁、タブリヌム(i)の北の側柱そば 大理石、ブロンズ
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・No.49 《エウマキア像》 家父長制のローマと同じく、ポンペイでも女性の地位は高くなかったが、家の女主人であるマトローナ(既婚女性)は敬意をもって遇された。 最高の名誉は、ポンペイの公的女性神官になることだ。 この、女性像は頭にマントをかぶり、厚いキトンをまとう女性神官として表現されている。 ポンペイの毛織物業者たち(フロネス)が、同業者組合の保護者であり、ルキウス・エウマクスの娘であるエウマキアを顕彰して立てた像である。 彼女の父は、アンフォラやドリウムや瓦の製造所を所有し、ワインの製造まで手掛けた裕福なポンペイ市民であった。 /No.64 《ヘルマ柱型肖像》 奴隷は主人の遺言により、あるいは金を支払い、奴隷身分から解放された。 大理石のヘルマ柱には以下の銘文が刻まれている。 われらがルキウスの守護神に解放奴隷のフェリクスが建立した。 この家で出土した中で最も古い書字版には、この肖像の建立者として解放奴隷のフェリクス (ユクンドゥスの父親または祖父と思われる) の名前が刻まれている。 /・No.40 《ヘタイラ(遊女)のいる饗宴》 この「タブロー画」は、ソファー台の上に横たわる一組の男女の親密な饗宴の場面を表している。 /No.41 《饗宴場面》 彼らの前には小卓があり、その上には様々な料理が載っている。 /No.71 《金庫》 ユピテルへの奉納の場面が表されたこの金庫は、空の状態で発見された。 その両脇には花模様の 2 枚の四角いパネルがあり、これも銅に錫の象嵌が施されている。 |
'2022 1_17 報道内覧会 「ポンペイ―ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」 の各章の概要と会場内展示風景です。 |
4. 「ポンペイ繫栄の歴史」 |
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本章では、ポンペイ繁栄の歴史を示す 3 軒の邸宅 「ファウヌスの家」「竪琴奏者の家」「悲劇詩人の家」 に注目し、会場内に邸宅の一部を再現します。 モザイクや壁画の傑作、出土した生活調度品を鑑賞しつつ、2000 年前の邸宅の雰囲気を感じていただきます。 「ファウヌスの家」 は前 2 世紀にさかのぼる古い邸宅で、ヘレニズム美術屈指のモザイク装飾が残されています。 | |
・No.153 《イフィゲネイアの犠牲》 1 面 50~79 年 ポンペイ、「悲劇詩人の家」(Ⅵ8,3.5)、ペリステュリウム(10)、東の列柱廊出土、北壁 フレスコ |
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No.153 《イフィゲネイアの犠牲》 住宅のペリステュリウムに描かれたこの壁画の中央には、オデュッセウスとディオメデスに抱えられ、アルテミスへの生贄として運ばれていくイフィゲネイアが表されている。この絵画はギリシャ悲劇の1つ 「アウリスのイフィゲネイア」 として知られるエピソードを描いている。 / No.123 《スフィンクスのテーブル脚》1831 年に 「ファウヌスの家」 で発見された大理石テーブルには、座ったスフインクスをかたどった脚がついていた。 アテネ郊外のペンテリコン大理石が利用されて、この像の制作時期は、アウグストゥス時代に位置づけられる。 / No.148 《竪琴を弾くアポロ》 この彫刻は、前 5 世紀の様々なモデルから着想を得て前 1 世紀に制作された折衷的な作品である。 アポロンは左手にキタラ(竪琴)、右手にピックを持ていた。 |
'2022 1_17 報道内覧会 「ポンペイ―ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」 の各章の概要と会場内展示風景です。 |
「ポンペイ POMPEII」 ―ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没の自然環境― (※図録などからの抜粋文です) |
イタリア中部にあった人口 1 万人ほどの都市がヴェスヴィオ山の噴火で一瞬にして埋没した。 火山灰が防腐剤のような働きをしたこともあり、火山灰の下に眠っていたポンペイの都市は、
2000 年前 (日本では弥生時代) とほとんど変わらない状態で残っていたのです。 悲劇の街は、遺跡として当時の暮らしを伝えるタイムカプセルとなった。
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ポンペイを含めたヴェスヴィオ山とナポリ湾周辺は、紀元前 8 世紀頃にこの地に人が集まって集落ができて以降、日光浴や景色を楽しみたい人気の高い富裕層向けの観光地や保養地へと街は少しずつ変化を遂げて、やがてローマ人の別荘地としても発展します。 しかし、西暦 62 年 2 月にポンペイを襲った地震で、ポンペイやカンパニア諸都市は大きな被害を受けますが、 直ぐに街は以前よりも立派に再建されていく、途上で地震の災害から 17 年後の西暦 79 年 8 月 24 日以降、午後 1 時頃ヴェスヴィオ山の大噴火とともにポンペイ市街地を覆いかぶさるように火山灰が一昼夜にわたり降り続けた。 翌 25 日、噴火から 12 時間後、発生した火砕流は 「火災サージ」 と呼ばれ灰や岩石や火山ガスの比率が高く密度が小さいため高速約 100 kmを超える速さで山の斜面を雪崩れのように流れ降りポンペイを襲い、そこに住んでいた人々や家屋もろとも全て、一瞬にして完全に地中に埋まった。(そこには約 2,000 人、または 16,000 人ともの生き埋め説がある) 市街地まで溢れ出た火災サージの温度は 700 ℃近くでこれほどの温度と速さの溶岩に襲われたらまず逃げ切ることは出来なかったであろう、噴火が収束に向かった頃、ポンペイは何百万トンもの火山灰の下に埋まってしまった。 |
ポンペイ遺跡の代表的な 3 軒の邸宅 「ファウヌスの家」 「竪琴奏者の家」 「悲劇詩人の家」 から発掘されたブロンズ像、モザイク、フレスコ画などと有名な 「綱渡りのサテュロス」 などの壁の装飾の断片を組み合わせての、「キケロ荘」 の食堂も、注目すべきでしょう。 ポンペイの住宅や壁面装飾は、古代ローマ世界の至る所で見られるものと同じ建築類型、同じ装飾形式を踏襲していたという。 |
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参考資料:報道内覧会「ポンペイ―ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没」カタログ、 PRESS RELEASE 他。 |
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